『先週の講壇から』~岩河敏宏牧師によるメッセージ

9月16日の講壇から


9月9日の講壇から 

「安らぎを得る」 マタイによる福音書11章25節~30節

 

 イエスは“言葉 ;5章〜7章”と“しるし・奇跡;8章〜9章”で神の御心を具体的に現してきました。それは、苦しみ悩む者や律法の定めを守れず、蔑まれていた人々にも、神の福音は届くというものでした。マタイ福音書では、イエスによって示されたこの福音を携えて、弟子たちが宣教に遣わされます。その時、この宣教が人々から受け入れられず、迫害されることを予告しています(10章)。本日の箇所もその文脈にあり、この直後に安息日規定に関してイエスの行為(癒し)と祭司・ファリサイ派の見解(律法解釈)が決定的に異なっていることが強調されています。イエスは、「神の御心が知恵ある者や賢い者には隠されて、幼子のような者には示されている」(25節)と発言しています。この発言は、律法に精通している者に対するイエスの皮肉とも取れます。神の御心を示す律法に関しては、自分たちこそが本質を示されていると自負する者に、隠されていると言うのです。それに続けて、「疲れた者、重荷を負う者は、誰でもわたしのもとに来なさい。(わたしが、あなたを)休ませてあげよう。)(28節)とあります。この場合の「疲れ」「重荷」とは、物理的な疲れや重荷のことだけではなく、「〜でなければ」という固定化された概念も含みます。私たちは、イエスの真意を正しく受け止めているのでしょうか。現在にあっても、イエスと祭司・ファリサイ派の人々が厳しく対立した状況が、続いていないでしょうか。知らず知らずのうちに、「〜でなければならない」との固定観念が蔓延し、外から来る人や内にいる仲間から「立派ではあるけれど、真似は出来ない」と息苦しさを感じさせてはいないか。真に「安らぎを得る」空間を、教会内に漂わせる者となりたい。


9月2日の講壇から


8月26日の講壇から

『挑戦する者』~マタイによる福音書9章18節~26節

 

本日の箇所は「このようなことを話していると」で始まり、前段との繋がりが強調されています。徴税人のマタイが、たった一人で収税所に座っているのを見たイエスが「従いなさい」と声をかけ、彼は立ち上がりイエスの弟子となりました。イエスは彼の決断を喜び、彼の招きに応じ神の恵みを記念して楽しい食事をし、希望に溢れる新しいぶどう酒(命の躍動)に関する話をイエスがされた(9章9節〜17節)。ちょうどその時に、「死」という不幸な知らせが届いたのです。それは、イエスによってもたらされた喜びの状況と対極にあると感じるかもしれません。だが、ここでの「死」は寿命の問題でなく、神との関係の断絶を問題にしています。その意味では、12年間出血が続き、汚れた者として疎外されていた女性も同様です。「死」や「不治の病」といった人間の力では如何ともしがたい現実を前にして、私たちは神との関係が絶たれたと観念し諦めてしまう。しかし、この態度は計り知れない神の恵みの大きさを、私たちが限定することになり、神の恵みに“従って生きる者”として不十分と言わざるを得ない。マタイ福音書は、この“諦め”という敵に挑んだ指導者と出血が続く女性の行動を強調します。指導者が「・・・死にました。しかし、来て下さい。あなたの手を置いて下さい。そうすれば生きるでしょう」(18節後半直訳)という言葉を聞いて、イエスは彼について行った(従った)とあります。マタイ福音書では“従う”という言葉は、イエスの招きに対する決断の意味合いが強い(4章20節、22節、9章9節など)。挑戦する者とは、希望が絶たれたと思える厳しい現実の中で、神の秘められた力に賭け、決断し行動する者だと知りたい。


8/19は岩河牧師が夏期休暇でしたので、『牧師室より』と題してメッセージをいただきました


8/12の講壇から 

「応答する者」 マタイによる福音書9章1節~8節

 

 9章の冒頭は「イエスが自分の町に帰って来られた」(1節)の記述で始まっており、これは9章全体が、イエスの領域での出来事ということを示しています。そして、前段(8章18節~34節)の諸事(向こう岸へ・・・①神の義よりもまず、自身の都合を優先させる。②救いのイエスが同伴しつつも、いないかのように一人で力み不安に陥る。③男二人の人間性回復に伴う一時的な損失より、今ある現状を変えられることを拒否する。)と9章全体が内容的に対照となっています。その最初は、人々が中風で床に寝たままの人を、イエスの所へ連れて来たことです。ここでイエスは、その人たちの信仰を見て、「子よ、しっかりしなさい。あなたの罪はゆるされたのだ」(口語訳2節後半)と中風の人に語るのです。中風の人の罪が赦されたのは、本人ではなく運んで来た人たちの信仰だとあります。イエスにさえ会えれば中風の人は癒される、と本人以上にイエスの力を信じていたのでしょう。イエスは、彼らの祈りを感じて応えられました。だから、あえて律法学者たちの前で“罪の赦し”を宣言されたのです。連れて来た人たち、イエス、律法学者、この三者の思いが交錯する只中に“中風の人”が置かれています。人間性の回復のためイエスの力を信じて全てを託す姿は、前段①②とは対照的です。一方、自己の律法解釈の正しさを前提にし、それを捨てずイエスを批判する姿は前段③と同様です。イエスが「起き上がれ。担げ。床を。」と厳しく語りかけるのは、自身の殻(安全地帯)に留まろうとする私たちが飛躍することの期待が込められていると理解したい。イエスの言葉に応答する者となる時、神の支え(担ぐ)が必ずあることをマタイは強調しています。